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鑑賞メモ #2

千葉市美術館「没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡」(2023/1/13–2/26)。年々、いわゆる洋風画(とくに江戸末期から明治初期の「泥絵」あたりまでの、技法から題材にいたる模倣と流用を主にする絵画)に対する興味が大きくなってきたところで、この展覧会は去年から楽しみにしていた。期待通り、初期から晩年まで、いままでは図版やつまみ食い的に目にするしかなかった亜欧堂田善(1748−1822)の主要作品が豊富に見られてとてもよかった。ぜひぜひ何度も通いたいところだが、場所が場所だけに難しい。

・「油絵」で描かれた洋風画。実物を見ると、当時のメディウムの安っぽさがいっそう強まり、一部などほとんどかすれたポスカのようだ。あるいは主題にしても、極めて限られた西洋画の原画、あるいは日本画の構図や司馬江漢の先行作(江漢の方がなんというか、はるかに「抜け感」がある)、そういったフレーミングを「型」として臆面もなく利用している。そのどちらの「貧しさ」をも先へと押し進め、図らずも奇妙な達成をしてしまったのが亜欧堂田善だった、ということになるのだろう。いったいこれほど孤独な絵画があるだろうか? 胸が押しつぶされそうなほど孤独だ。

・銅版画では定型の利用とアレンジメントがよりわかりやすい。じっさい元となった西洋の版画の展示があり比較ができて面白い。「眼鏡絵」のような、だまし絵的な文脈にある誇張された遠近法をそのまま持ち込み、さらに舞台を再配置したり、風俗を日本のそれに変えたりすることで、原画にはない独特の質が生まれている。これはすぐに気がつくけれど、田善の銅版画はすべからく止まっている。それは運動との対立で止まっているということではなく、コラージュが往々にしてそうであるように、配置でしかないということだ。人も、雲も、水も、ことごくが微動だにしない。有名な花火(!)の場面が描かれた《二州橋夏夜図(にしゅうばしなつよず)》(1804−09,須賀川市立博物館=所蔵)でさえそうだ。(ちなみこの花火の表現にも元ネタがある)

(続く)