わたしもそろそろ、感じのいい鼻歌でもおぼえたいものだ!
パン屋
地下道といって、街中ではせいぜいが大路を横断するための地下通路といったところだが、これだけ家屋が密集しているとなると、つまりこれほど無数の出入口があるとなると、いたるところが地下で繋がっている、いや地下でなくともよいのだが、ともかく通路をなしていると考える方がしぜんだった。家屋などではなく、たんなる通路の入口なのではないのか? 集合住宅はもちろん、もはや一軒の家屋を目の前にしたとしても、そこに確固とした、ぎっしりと思惑や行動、衝動がつまった生活を見ることなどできなくなっていた。男が一軒のテナント募集の張り紙を見て空き家だと見抜くと、すぐさま侵入の手はずをととのえ、分厚そうなガラスに顔を近づけると、室内に侵入した。白い粉が埃っぽく、ひどく冷える。あちこちのコンクリートが破壊されており、その見た目というより、そのむちゃくちゃな壊し方がなにか嫌な気持ちにさせた。また、想像の中で以前のこの部屋の姿を組み上げてみるのだが、壁は奇妙に部屋を裁ち、居住場所の体をなさない、これもまた違和感を与える一因だった。じっさい地下への階段が見つかり、それが木造の、いかにも急ごしらえだったものだから疑惑はいよいよ深まった。これくらいわかったのだから、もう充分ではないの? ひと月後、忘れたころにやってくるとパン屋になっていた、箱形の簡素なパン、つまり食パンが流行しているらしく、地下で大量のパンを焼いているにちがいなかった。高い棚のない広々とした売り場だ、こんなに大きな場所だったのか確信がもてなかった。パン屋が地域の拠点になっていると囁かれるようになった。家のだれかしらがこの店でパンを買ってくるということも多々あり、味だけからでは何かわからない深みのあるペーストが塗られていた。うすうす感じていたが、やはり地下通路を使っているのではないか? 店を入ってすぐ左手の壁には様々なお知らせのチラシが張られており、その内容というより、文字と絵がいっしょくたになったその全体を見ているだけで愉しく、その一画を見ることをいつも期待しているのだ。わたしは子供のころからそのパン屋に通ったものだった。大変な混雑のただなかにある店内と、自分ひとりだけしかいない閑散とした店内とが、狭い店内と恥ずかしいほどに広々とした店内とが同時にあった。こうしたパン屋が流行り始めた。わたしたちが物を考えるときのひとつの凡例となった。人びとは今後、自分自身の手でパンを作ることはないかもしれないが、パン屋になることは頭の片隅から消えない。
閉店とともに掛けられる灰色の簡素な布のむこうが異様に眩しかった、ギターの音が聞こえてきた、パン屋が企画した催しかもしれない。若者たちが踊っていた、部屋が蛍の群れの光のように暗く落ち着くと、若者たちが手と手と取り合い、接近しているようにも離れているようにも見える微妙な距離を生んだ。普段碁盤の目に並んでいる腰丈の台は隅に寄せられ、絨毯が敷かれていた、わたしはとなりの女に声を掛けると、この店の関係者が生活に関わるさまざまなことを斡旋してくれるのだという。激しくというより重々しく点滅する光に疲れて、わたしは立ち上がるのが億劫になっていた。木こりのような(?)あるいは西洋の古い妖精のような(?)ロビンフッド風(?)の姿をした男が中央に進みでた。じっさい斧かと思ったが小さな弦楽器を手にしていた。男は数人の黒子によってさっと準備された本物の、土のこびりついた丸太(!)に座ると、その楽器から思わぬ高い音を鳴らした、キーンと、細い糸に誤って触れてしまったようだ。男はその小さな楽器を間違ったみたいに弾き続けた。囃し立てる声が観衆から起こった、こんな品のない盛り上げ方をいったいどこで学ぶのだろう? この百年続いてきた映画だろうか? じじつこうした一連の光景全体が映画じみていた。映画というのは、人びとに対してすさまじい影響力をもってきた。
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馬鹿でかい、しわだらけの、視線を素早く跳ね返す黄色い柚子の、鈴なりに実っているのにぎょっとする。
〈組み伏し合い〉
それというのも、まずは組みあげることから始めて、つぎに組み伏すからである。人数は二人以上であればいくらでも増やすことができた。ただし、多数で行う遊戯というのが往々にして何らかの役割に分かたれるように(鬼とそれ以外、泥棒と警察などなど、けれど役割をもたない人などいるだろうか?)この遊びにも二つの役割があり、それぞれが任意にどちらかの役割を担う。またこれも往々にしてそうであるように、地方によって規則が変化することも言い添えておこう。いっぽうの役割は組み上げる、そしてもういっぽうの役割が伏し抑える。さて、それでは何を組むのか? 人である。彼らはまず人の体の部位に自分の部位を絡ませる。ただし、胸が相手の体に触れることは禁止されているので、抱きしめてしまうことはできない。つまり、手足と、もちろん指は使える、頭、あとは耳? しか使えないということだ。あなたも身近なだれかに腕を絡ませているところを想像してほしい。これはなかなか難しい。そしてこれも想像に難くないが、複数人であれば密に組み合うことができる。堅く絡み合って、つかみ合って、けっして離れることのないように。懸命になって絡み合うのは、自分の視線と自分の体、相手の視線と自分の視線、自分の視線と相手の体、相手の体と相手の視線、一緒くたになって、糸が通じるように呼応して。そして、彼らは決まった円の中で組まなければならない。円の大きさには伝統があるし、変更も可能で、そこらへんは自在に、愉しく遊ぶためのお約束である。「もういいよう」そこで組み伏す者が登場する。武人のように堂々と、ふてぶてしいものだな! 組み伏す者は自分の体ひとつ、頭ひとつで、一体となった彼らを解かなければならない。当然ではあるが、痛みを伴う行為は禁止だ。それゆえ、組み上がった集団の周囲に引かれた境界線の外側からしか働きかけることはできず、境界線は伸ばした腕の指先が届くか届かないくらいか、というのが基準となっている。一見すると組む者が有利そうだが、そういうわけでもない。というのも、組み手のだれかがほんの少し手を離してしまったら終了、負けてしまう。ゆえに手という手に眼が光る。これは持久戦が基本なのだ。ひとつになった組み手の呼吸を狂わせる、これが基本的戦略である。例えば、脇をこしょばせる身振り。それだけで息は乱れ、集団は弛み、崩れる群れとなる。あるいは巧妙な言葉、会話、話による油断。なにせ耳は塞ぐことができない。あるいは芝居や歌。音楽というのはこういうことにも役立つのだ。流行っていたのが〈洒落者〉という組み手側の技である。なんと瀟洒な一手だったことだろう、それにもかかわらず、なんと野蛮なやり口だっただろう! あなたも一目見たらわかるだろう、組み手たちは、堅く組もうとしないのだ。すべてが軽やかに、まるで棚に並ぶ小ぶりな人形たち、店の飾り窓のマネキンたちのように、軽く手をあてがうばかりなのだ、実に優雅に、社交界で立ち話でもしているかのように。彼らはこの遊びの根本的な発想を逆手に取り、自然に自然に、軽く軽く、組み伏す者たちの外連味をかわしてしまう。しかしその自然さこそがひるがえって外連味であることが弱点であり、逆に伏し手の側が自然に、まるで夕食後のひとときのように振る舞う〈学者〉という戦法が生まれた。
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束になった線路を避ける大きく曲がる跨線橋を、電子部品を思わせるゆえ寸法の定かならない巨大なターミナル駅を左手に、割合に近い低い山並みを右手に見ながら私が歩いていると、車道の向こうにいる男が歩いているのではなく立ち止まっていた。山の方を見ている、春先のいますこし煙って灰色の混じる山肌だった。後ろから続いて歩いてくる女が次第に男へ近づきながら、同じように山並みへ顔を向け、ゆっくりと足並みを止めた、私も立ち止まっていた、つまり三人が春の山並みを見ているということだ、低い山だった。女が踵を返した、男も踵を返した、私はもともとそちらに歩いていたのだから、みなが同じ方向へ歩き出した、その一致が風景を歪ませるように奇妙なデジャブを引き起こした、私はとっさに踵を返した、けれどそれもまた仕組まれているかのようだった、何をしても仕組まれているようだ。元の場所に戻るのだから、私はもう何が起こったのか理解しかねた。古い流行歌でも聴いてるようだ。