Small Photo Diary

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Interlude 絵と写真 #2

・だんだん個人的な実感になってくるけど、仕方ない。

・ダンスと絵画。たまたま積読だった島尾新『水墨画入門』(岩波新書、2019)をぱらぱらしていると、呉道玄(ごどうげん、唐時代の画家)の逸話が書かれていた。

呉道玄は、裴旻(はいびん)という将軍の剣舞を見て、その「出没神怪」なるさま、人間業とは思えない自在な動きに感応し、筆遣いがさらに進歩したという。呉道玄が書を学んだ張旭(ちょうきょく)も剣舞を見て筆が進んだという。(34頁)

・ようするに、ダンスを見ると絵筆が進む、ということ。絵を描くのがダンスを規範にできるというのは描いてみるとわからなくない。一筆ごとのストロークや配置、形などが動的にできあがってくる制作プロセスがダンスの動きを追う(ダンスをする)のと感覚的に近い、ということだ。これは絵画が「一発で」できないということでもある。絵画は、その制作において時間的な幅のなかで様々な動きを作ろうとする。画家は「踊る」。

・対して写真家は制作プロセスにおいて「踊らない」。もちろん撮ろうとする画面に線、面、配置の動きを読み込んだり、見出したりすることはある。あるけれど、踊りの主体ではない。実際にその物を作り出すわけではないから。写真はダンスにはげまされるだろうか?

 絵画:踊る

 写真:踊らない

・予感と余韻。これも他の人がどうなのかわからないが、制作プロセスにおいて写真は予感にかかわり、絵画は余韻にかかわる。

 絵画:余韻

 写真:予感

目の前に物や風景があり、それを描く/撮るという単純な場面を考えてみる。何かを描くというのは、目の前にあるそれを時間をかけて確かにしていくプロセスだ。描き始めると、対象はちゃんともうそこにあるのに、絵はまだ手元にできない。目の前にしているものの余韻を描いている感じ。いわば余韻を作るような感じ。何かを撮るときは違う。目の前の風景は、撮ってみるともしかしたらいいかもしれない。この「もしかしたら〜かもしれない」という感じ。写真を撮ると、勝手に突然できあがるから、その隅々にまで目をくばれないのだ。突然すぎて、写真はいつも「予感」として目の前に現れる。絵を描く場合は(自分はサイズが小さいということもあるが)、手元に描かれている線、面、配置をそのつど、時間をかけて確認できる。

・ところで、そろそろ写真が撮りたい…。