Small Photo Diary

Photo Diary, QuickSnap(写ルンです), iPhone SE, Voice Memos, Camera, DSC-RX100, その他の日記(https://mitsueyou.hatenadiary.jp/), Tumblr(https://yumitsue.tumblr.com)

・4度目のピエール・ボナールプロヴァンス風景》(東京国立近代美術館MOMATコレクション) 。悪天候で、あまり乗り気のしない中。集中するまでいつもより時間がかかった。

・見る距離によって印象がかなり変わる。もちろん、そんなことはボナールの絵に限らないし、絵によって効果は様々だろう。例えば、ボナールのあるギャラリー4には長谷川利行《新宿風景》(c.1937)がある。これは離れるほどに並行する細いストロークが目立ち、風景は細かな引っ掻き傷をあらわにする。あるいは坂本繁二郎《水より上る馬》(1937)は、離れてもそれほど変化がない。

(ところで長谷川利行のこの絵はとても都会的というか、センスがいい。同時代の他の日本人の絵がどれもこれもどうしようもなく野暮ったく見える。)

・ボナールの場合、三、四メートル離れると全体がやや暗くなり、でろっと(ややサイケデリックに)溶けるように絵の質がはっきり変化する。近づくと明るみを増して、でろでろは解除される。こういう変化といえば印象派がすぐによぎるが、印象派の場合はどちらかといえば離れると風景が明確になり、近づくとバラバラな色彩に解体される。けれどボナールの絵は離れても何かが明確になるわけではない。では近づけば何か明確になるかといえば、別にそういうわけでもない…。セザンヌならストロークのまとまりが距離によって変化して「絵が動く」のだが、そういうわけでもない。

・なんというか、絵が絵自身を味わっているのを目撃しているようだ。料理を頼んだら、その料理を食べる人を見せられた、とでもいうような。その「え?」という戸惑い。

 

・3度目のピエール・ボナールプロヴァンス風景》(東京国立近代美術館MOMATコレクション) 。相変わらず素晴らしい。成立年は1932年となっているので、65歳の時の作品(享年79歳)だから、最晩年ではないが晩年だったとはいえる。作風としてもいかにも晩年。

・ぱっと見た瞬間、前に見た印象よりもずっと暗い感じがしたが(じっさい全体的には落ち着いた色が占めている)、数分ほどかけてじんわりと明るくなってくるのがわかる。夕暮れの時に暗くなりながら明るくなるのに似ているかもしれない。

・やっぱりつかみどころがない。セザンヌのようにストロークを追うこともできない。けれどじっと見ることができるのが奇妙。普通、じっと絵を見るのは難しい(絵に限らないが)。いまいちな絵画はすぐに見飽きるし、いいと思った絵でも長くは耐えきれない。ボナールはなまじ見ることができるから油断してしまうが、出会うことも出会い損ねることもできない感じがする。

・2度目のピエール・ボナールプロヴァンス風景》(東京国立近代美術館MOMATコレクション) 。どうやったらこうなるの? という気持ちが収まらない。

・例えば、向かいに掛かっているアンリ・マティスの小ぶりな肖像画《ルネ、緑のハーモニー》(1923)であれば、いかにも大戦間のモダンな良作というのがわかり、安心してその良さを味わえる。けれどボナール のほうはその良さのよって立つところがいまいちわからない。歴史性、技法、形式などからアプローチしずらい、ということなのか。常設展全体においても、ボナール の絵がもっとも寄るべない。

・MOMATコレクションでは有名なポール・セザンヌ《大きな花束》(今回の常設では見られない)も素手を強いられる感じがするが、ボナール はそれ以上かもしれない。

東京国立近代美術館に新収蔵されたピエール・ボナールプロヴァンス風景》(1932)を常設展で見る。https://www.momat.go.jp/am/exhibition/pierrebonnard2022/

・想像していた何倍も素晴らしい。絶句。じっと見ているとふつふつと笑い出しそうになって、大変に元気をもらった。これが定期的に見られることになったのはありがたい。とりあえず今回の、五月初めまでの常設期間中はできるだけ見に行こう。