Small Photo Diary

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絵と写真の空白(ブランク)

・絵の清々しさのひとつに、「背景が空白で構わない」ということがある。もちろん、描く物(紙、液晶画面など)は何らかのかたちで背景だが、そこに何かを描き込まなければ(塗り込まなければ)、空白(ブランク)としての扱いを受ける。埋めなくても構わない!

・例えば、通常、写真にはこの空白はありえない。かならず画面が光学的な何かに埋められてしまう。光景には空白(ブランク)がない。

・それでは、写真における空白とはなにか。あるいは現実の光景においては? そのとき空白はどんな意味をもつのか。

ダゲレオタイプ

・はじめてダゲレオタイプを生で見た。東京国立近代美術館の常設展「MOMATコレクション 特別編 ニッポンの名作130年」の新井卓「2012年1月10日、ファミリーマート、相馬市松川浦」(19.3×25.2、「Here and There——明日の島」より)という作品。一点だけ展示されていた。見たことのない、すごく魅力的な画像だった。

ダゲレオタイプは、銀板に現像する黎明期の写真。一点ものである。

・A5サイズくらいだろうか、印象としては小ぶりな金属の板で、近づくと、磨かれた表面に鏡のように自分の顔が写る(本当に最初は鏡かと思った)。そこに反転したファミリーマートが(文字が反転しているからすぐに気づいた)クリアに見て取れる。けれどいわゆる普通の写真とは違って、全体がべったり着色されているわけでなく、中心部に透明感のある像がくっきり、やや立体的にそっけなく写っている程度だ。

・とてもリアルで不思議だった。単なる画像以上の何かを感じてしまう(あの感じをうまく言うのが難しい)。写真の特徴としてよく言われるような「過去の存在感」というより(もちろん存在感もあるのだが)、「ありえたかもしれない存在感」を感じる。ありえたかもしれない風景を見ているような、といえばいいのか。自分の過去に直接つながるのではなく、自分のあずかりしらない過去につながっている、ような奇妙な感覚。画像と現実のあいだ、であるかのような。

・「あのファミマにかつて私はいたのかもしれない」

・周りに展示されている、大きな他の画像をうすっぺらく感じさせた。隣に写真が並んでいたが、このダゲレオタイプの後ではどうしても嘘っぽく見えてしまう。

・けれど、ダゲレオタイプというのは、一歩間違えれば、とても安っぽい人工的な作り物になるのではないかと思った。逆に嘘っぽさが強調されて、かなり下品に、嫌らしいものになってしまうのではないか。おそらく、この一枚は中でもかなり出来のいいダゲレオタイプなのだろう(実際、買い上げられているわけだし。「普通の」ダゲレオタイプも見てみたい)。このぎりぎりな感じも魅力のひとつか。

・ところで、やっぱり屏風と巻物は面白いなあ。作りは単純なのに、すごくダイナミックで。

 

 

 

 

 

 

Interlude 絵と写真 #2

・だんだん個人的な実感になってくるけど、仕方ない。

・ダンスと絵画。たまたま積読だった島尾新『水墨画入門』(岩波新書、2019)をぱらぱらしていると、呉道玄(ごどうげん、唐時代の画家)の逸話が書かれていた。

呉道玄は、裴旻(はいびん)という将軍の剣舞を見て、その「出没神怪」なるさま、人間業とは思えない自在な動きに感応し、筆遣いがさらに進歩したという。呉道玄が書を学んだ張旭(ちょうきょく)も剣舞を見て筆が進んだという。(34頁)

・ようするに、ダンスを見ると絵筆が進む、ということ。絵を描くのがダンスを規範にできるというのは描いてみるとわからなくない。一筆ごとのストロークや配置、形などが動的にできあがってくる制作プロセスがダンスの動きを追う(ダンスをする)のと感覚的に近い、ということだ。これは絵画が「一発で」できないということでもある。絵画は、その制作において時間的な幅のなかで様々な動きを作ろうとする。画家は「踊る」。

・対して写真家は制作プロセスにおいて「踊らない」。もちろん撮ろうとする画面に線、面、配置の動きを読み込んだり、見出したりすることはある。あるけれど、踊りの主体ではない。実際にその物を作り出すわけではないから。写真はダンスにはげまされるだろうか?

 絵画:踊る

 写真:踊らない

・予感と余韻。これも他の人がどうなのかわからないが、制作プロセスにおいて写真は予感にかかわり、絵画は余韻にかかわる。

 絵画:余韻

 写真:予感

目の前に物や風景があり、それを描く/撮るという単純な場面を考えてみる。何かを描くというのは、目の前にあるそれを時間をかけて確かにしていくプロセスだ。描き始めると、対象はちゃんともうそこにあるのに、絵はまだ手元にできない。目の前にしているものの余韻を描いている感じ。いわば余韻を作るような感じ。何かを撮るときは違う。目の前の風景は、撮ってみるともしかしたらいいかもしれない。この「もしかしたら〜かもしれない」という感じ。写真を撮ると、勝手に突然できあがるから、その隅々にまで目をくばれないのだ。突然すぎて、写真はいつも「予感」として目の前に現れる。絵を描く場合は(自分はサイズが小さいということもあるが)、手元に描かれている線、面、配置をそのつど、時間をかけて確認できる。

・ところで、そろそろ写真が撮りたい…。

Interlude 絵と写真

・少し前にカメラが故障した。修理に出しているので、代わりに最近、iPhoneのメモアプリを使って絵を描いている。いままで絵を描く機会なんてなかったから、初めて感じることもあり、メモ代わりに感想を(写真をフックにして)書き留める。

・以下は本当に当然のことだけど、すぐ忘れそうなので。

・写真は、カメラの前に対象がなければ基本的に成立しない。つまり「そこで、それを」撮る。これはここにある。けれど、紙であれ電子であれ、何かを描くときには対象から離れて描くことができる。このことにめちゃくちゃ驚いた。(当たり前すぎるからわかってもらえないかもしれない…)あれを、あれのないここで描けてしまうというのが不気味だ。絵を描くというのはなんて野蛮な行為なのか!

・ところで、自分は写真に対する感受性が欠けている気がする。いわゆる「写真の良さ」があまりわからない。

・具体と抽象。写真は、撮れば勝手に具体的なものができあがる。画面に写っているのは具体的な現実、物だ。いくら抽象的な画面を考えても、「勝手に」具体的なものを捉えてくれる。「勝手に」写ってしまう。対して絵画は、「頑張って」具体的にしないと、対象ができあがらない。逆に言えば、「勝手に」抽象的になる。引っぱり込む力のベクトルが逆になっているような感じがした。

   写真:具体→抽象

   絵画:具体←抽象

・道具。写真はカメラという複雑な器具が必要だ。絵は、いまはiPhoneで描いているが、自分のような簡単なものなら鉛筆と紙でいい。圧倒的にミニマル。カメラというのは壁に思い切り投げつけたら壊れるが(自分の場合、物に対すると、どうすれば壊れるのか、ということを考えてしまうようだ)鉛筆と紙は壊れない。多分そのまま使える。拾った石で紙にガリガリ描くこともできるだろう。写真は、カメラがないと作れない。写真を撮ることの融通の効かなさ。

・速度。絵を描くのは簡単なものでも、時間がかかる。例えば散歩の速度にはそぐわない。ここはかなり大きく違う。絵を描くときは、何らかのかたちで「腰を据える」必要がある。写真は歩く速度によく合う。撮るということに関して(その準備がいる場合は別として)「腰を据える」必要はない。もちろん構えてから様々な調整は必要だが、ボタンを押せばそれでいい。慣れたら変わるのだろうか。(いくら素早く描けても、この「腰を据える」感は残るような気がするのだが)

・写真は「一発」だが、絵は「連発」しないといけない。つまり、ふつうは何度かストロークや書き直しなどが必要だ(一筆書きだとしても、その一筆には時間がかかるし、微妙な選択の繰り返しがあることには変わりがない)。「一発で」できない。「一発で」できる写真が、ここでも苛立たしい。それなのに現実の豊かさを損なう写真の貧しさ。(もちろん、だから力を発揮するのだろうけれど)よっぽど絵画のほうが「豊か」だろう。

 ・そういう点では、絵を描くことは文章に近いか。

(続く)